乳癌の手術をして1年が経ちました。
この1年いろんなことがあって、人様の「おかげさま」とか「ありがたさ」ということを、何度も骨身に染みた経験させてもらいました。
それともう1つ、大きな勉強というか、新しい価値観を得ることができたと思うことがあります。
それは、「あきらめる」ということ。
抗がん剤治療で脱毛することがイヤで恐くて、散々に愚痴っていた頃、敬愛する小橋さんが教えてくださったこと。
小橋さんが日経ビジネスのNBonlineに連載されているコラム「ムラからの手紙」の中の『長靴を”あきらめる”経験 ~守っているのは、なぜですか?~』を引き合いに出して、髪の毛を一時的に諦めることで、抱いている恐怖感から抜け出すことができるのではないかと教えてくれました。
子供の頃からずっと「決して諦めないこと」が大切だと教わってきたし、自分でもそれを信条としていたので、その真逆の「あきらめる」ことを受け入れるには時間がかかりましたが、
小橋さんが言う「あきらめる」は、目標に向かうことを諦めるということではなく、
自分がこだわっていることは、本当にこだわる必要があるものなのか?
自分が守ろうとしていることは、本当に守る必要があるものなのか?
自分や自分の周りの贅肉をそぎ落とし、もっとシンプルに考えられないか?
ということだと、私は理解しました。
そう理解できた途端に、髪の毛をなくしてツルッパゲになっても、私は何も失わないのだと分かり、気持ちが楽になりました。
2度目の癌をもっと早期に発見できなかった悔しさも、変えることの出来ない過去を諦めることで、心が悔しさに支配されることから逃れることができました。
副作用の関節痛も、できる事すべてやったうえで緩和されないのなら、ずっと付き合っていくしかないと諦めることで、慣れる努力をする切り替えができました。
薬のせいで集中力が弱くなることも、右腕がまだ自由に動かないことも、以前のようには100%は戻らないと諦めることで、60%の状態で快適にすごす工夫をする切り替えができました。
そうは言っても、たかが髪の毛されど髪の毛で、気は楽になったものの、抜けていくときの喪失感は決して忘れることはできないし、諦めたり、慣れる努力したり、工夫したりでたまるストレスを定期的に解消する必要はあるのですが、
それで、何かを失ったかといえば、いいえ、私は何も失っていないのです。
なんか、こう書くと、悟ったような、凄くいい人間になったみたいだけど、そんなんじゃなくって、必要に迫られて新しい価値観を頼りにしているだけなのですけどね。
小橋さんがコラムの最後に、
『 あなたにはぜひ、田んぼに素足で入るような種類の経験を、次の機会までに、何かひとつしてみていただきたいと思います。都会でできる経験もきっとあるはずです。それがどんな経験で、それを通して自分がどう感じたか、聞かせていただければと願っています。 』
と書いておられるので、今日の日記は、小橋さんへ。
ありがとう。
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ウォーキングは順調です。
iPOD nanoをバージョンアップして、Nike+で楽しくウォーキングしています。
手足の指先はまだ痺れているし、関節痛もありますが、痛みをあまり感じないように歩く方法を編み出すことができて、40分ぐらいは連続して歩けるようになりました。
汗をかいて身体を動かせるようになったおかげで、自然と気持ちも元気になってきました。
この日記を、乳癌日記からフツウの日記に変えられる日も遠くないと感じています。